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今日仕事辞めてきた。
朝、仕事のために起きて、準備して、何時に終わるのかわからない仕事のために 時間を費やすのが嫌になったからだ。
かと言って、自分には秀でた才能があるわけではない。
振り返る人生
振り返ってみるとこの人生で本気で何かに打ち込んできたことがあっただろうか。
野球人生
小学4年生から高校3年生までしていた野球は、
これと言ってすごい成績を残せたわけではない。
強いて言うなら中学時代に地区大会ぐらいで優勝できたぐらいであろうか。
高校3年生の時なんて最後の大会で初戦負けで終わった。
その試合での自分の成績はというと、5打数0安打だ。こんなもんか俺の野球人生と思った。
高校時代
その後の高校生活は、周りが大学受験するし、自分も何となく大学に行かなきゃなと思って志望校を何となく理学療法士の資格が取れる大学にしよう。
それも、地元の北海道内か、北海道から近い東北近辺にして、何とか頑張ればいけるんじゃないかぐらいのレベルの国公立かまあ私立でもいいかという感じで最初選んでいた。
けれども自分の勉強に対してのやる気のなさからレベルをグンと落として、柔道整復師の資格が取れて、どうせなら野球が強いところに行って、
あわよくばトレーナーでもやって、プロ野球の現場にでも行けたらいいなぐらいの感じで群馬県の大学に決めて、2次試験とか受けるの面倒くさいからセンター試験利用で受験することに集中した。
当時、自分は勝手に数学が得意だからと自負し、数学と何かしらで受かればいいやと思っていたが、実際に受かった科目は、現代文と地理。それも現代文は過去に取ったことがないぐらい良い点数だった。数学は点数がめっちゃ低かった。何が起こるかわからないなと思った。
大学生活
晴れて大学に入学し、大学では勉強頑張って1番になってやると思っていた僕は、毎日勉強した。毎日は盛った。最初はテスト前にめっちゃ勉強した。
そしたら結構上位の成績ではあった。ただ1番ではなかった。その後も、何となく勉強ができるキャラになった僕は先輩がたまたま野球部にトレーナーとしていくことになっていて、自分も行きたいですと手を挙げるといけることになった。
軍隊みたいな野球部だったけれど結構楽しくやらせてもらえた。いや、本当にそうだっただろうか。選手のメディカル的なケアから、リハビリ、トレーニングまで色々見た。選手が怪我をして新しい事例が出ると本で調べたりした。
学校の先生に診てもらうのはなぜか気が引けた。変な意地を張っていたからだろう。
他にもトレーナー活動をしていた同級生が先生に度々相談をしていたのを見て、自分で調べて勉強しろみたいに思っていたし、その同級生が選手全員と、雰囲気良く、そして、1つのチームの一員として活動していたのがうらやましかったのだと思う。
自分はというと、部員数250人越えの軍隊集団に飲み込まれていた。比較的自由に何でもさせてもらえていた立場を利用して、部活に行きたいときに行って、忙しいときは忙しかったし、勝手に帰れそうなときは帰っていた。楽しい。自分はやりたいことをやっているんだと言い聞かせて毎日を過ごしていた。
そんなある日、学校からあるプロ野球の球団の秋季キャンプに同行しないかという話が舞い込んできた。自分は即答で行きますと答え、結果的に2年続けていくことになる。1年目行った時から思っていたが、楽しくないなと思っていた。この時大学3年生。目標を無くしていた。野球部のトレーナーは大学4年生になるタイミングでやめた。
ちなみにこの他に大学生活何をしていたかというと、
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筋トレにはまり、めっちゃ身体のことを研究しマッチョになる。
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トレーニングを勉強するためにアメリカのコロラドで勉強するという名の初めての海外を楽しみまくる。
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トレーナーをやめ、大学の友達と3人で学校を休みスペインのバルセロナに旅行に行く。
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その後はのほほんとしながら、軽く就活しつつ、国家試験の勉強をしつつ、なぜか選ばれてしまう論文の学会発表に尽力を尽くす。
大学4年の夏、就活という言葉の意味が分からなくなり、ワーキングホリデー制度を使い、オーストラリアへ行くことを決める。そこまでモチベーションが上がらなくなってしまった柔道整復師の国家試験の勉強はそれなりにこなし、結果、普通に合格した。この時すでに、柔道整復師として働きたいとは思わなくなっていた。
ワーホリの話
大学を卒業し、オーストラリアへ飛んだ。
就活するのがよくわからない、なんか海外で生活してみたい、社会の事よく分からないし海外で生活してみたいという不純かつ社会不適合者的考えからオーストラリアへ飛んだ。
英語は全くできないし、語学学校へ通ったり、YouTubeを観たり、映画を観たりしながら勉強をした。3ヵ月勉強したらある程度分かるようになるなんて言うけどそんなの嘘だ。全然 分からないわ。むしろ英語聞くの嫌になるわ。
絶対に日本人が働いているようなところでは働かないぞと思っていたけれど結局ジャパニーズレストランで働くことになって、それもキッチンハンドで。
自分に絶望しながらも英語は話せるようになりたいからバックパッカーに泊まって色々な国の人たちに話しかけて、少しずつ話せるようになっていき、気づいたら違う地にも行ってみたくなり、そう思ったらすぐに移動したくなり、1週間後の飛行機で4時間かけて違う地へ飛んでいた。
そんなこんなして気づいたら1年間で4つの地へ行きどの地でも仕事を見つけることが出来、なぜかバックパッカー暮らしにはまってしまい、各地でバックパッカーに泊まりながら生活をし、友達もたくさんできていた。本当に楽しかった。生きているなと思った。
2020年の3月に彼女とオーストラリアのイーストコースト縦断の旅をした。実は2020年1月に彼女が出来た。オーストラリアに来た当初から語学学校で出会い、歳が同じということもあり、仲良くなり、巡り巡って付き合うことになった。
ちなみに今も一緒に暮らしている。本当にしっかりしていて、頼りになる。俺こんなんでいいんかなと思うくらいしっかりしている。俺もしっかりしろってな(笑)。
話は戻って旅の途中、新型コロナだか何だかのウィルスが世界中で広がって、帰国を余儀なくされた。日本に帰ったらゆっくりしようとしばらく過ごしていた。だが世界中に広まるウィルスは収まる気配もなく、ただただ毎日が過ぎていく。だんだん何しているのか分からなくなってきていた。あのまま何もしていなかったら今頃廃人だっただろうな。救いの手を差し伸べてくれたのは、彼女だった。
帰国後に始める農業
兵庫県に住んでいる彼女の元へ向かった。オーストラリアにいたときから日本に帰ったらリゾートバイトなんかして、日本を楽しみながら海外のお客さんや多国籍の従業員と一緒に楽しんで、また違う国に行けたらいいねなんて話していたが計画はすべて崩れた。
とりあえず彼女と仕事探し。一緒に仕事できる環境を探した。絞られた候補はリゾート、旅館、酪農、農業だ。言うまでもなくリゾートと旅館はダメ。酪農と農業はオーストラリアでオーガニック文化や健康に触れているうちに興味を持った。
選ばれたのは農業でした。
北海道のブロッコリー農家で大規模な農業を経験した。体力的にしんどかった時もあったし、ダルイおっさんもいたけれど、楽しく乗り越えることが出来た。
半年くらい働いて、四国とかその周囲を旅した。言うまでもなく楽しかった。そして考えなければならないのは次の仕事だ。結構悩んだけどもう少し農業を知りたいという理由から淡路島で玉ねぎづくりをすることにした。
法人の会社でだけど。できれば無農薬でしている農家を探したが、そういったところは人手は募集していないようだった。とりあえず色々探してみて面白そうだなと思った何件かに連絡した。2社目ぐらいに連絡したところがいいなと思ってそこで働くことに決めた。
いいなと思った理由として、若い人が多く活気にあふれてそう。社長が従業員のやりたいことを応援してくれるというのを聞いたからだ。現に面白いことをしている人もいた。1月からアルバイトとして入り、4月から正社員になるという運びになることになった。
いざ働いてみると、普通に楽しい会社だ。作業内容も地味な作業も多いが、農業はそういうものだと思っているし坦々とこなしていた。管理作業は農薬ばら撒いたりするけど、無農薬でする上で知っておかなければならない大事な作業の1つだと思って仕事をしていた。
そんなこんなで4月になり入社した。何か変わったかというとそんなに変わったことはない。ただそれが問題だ。会社で作っている玉ねぎにどうしても愛が持てないのだ。それに、作業が楽しいと思えなくなっている。
何が楽しいのか分からなくなっていた。
自然と仕事がストレスになっていることに気が付いた。
必死に仕事の楽しみを探すようになった。
楽しむように心がけても、早く帰りたいと思うばかり。
仕事が全然できないわけではない。
次第に人間関係にも疑問を持つようになる。
社員の何人が仕事を楽しんでいるのだろうか。半分もいないことに気が付いた。
限界だった。今後のビジョンはほとんど決まっていないといっても過言ではない。
だがやめたいと伝えた。
意外とあっさり辞められた。肩の荷がすっと落ちた。
従業員の皆とはこれからも何かしらで関係は繋げたいと思う。
いい人たちではあるから。
ところでこれからどうしようか。。。。